関良介さん

関 良介さんの体験談

  わたしは父方のマルファンの遺伝である。父の兄、姉、弟と父の少なくとも4人はマルファンだった。祖父は父が幼いころ亡くなったが、この人からの遺伝だからわかる範囲では3代目。

 

わたしが7歳のとき叔父が急死した。その死因を探るため行った解剖で腹部大動脈破裂が発見され、親族も診察され、マルファンとされたのは叔父、叔母、父とわたしと妹。伯父は2年後に腹部大動脈の拡張が発見されて手術を受けた。しかし4年後に胸部大動脈破裂で亡くなった。叔母も手術を受け、父もその後手術を受けた。叔母は術後7、8年、父は20年生存した。

 

子供のころから背が高く指が長い。そのくせ運動の成績は上がらない。小学校のころ毎年マラソン大会があったが、学年が進むほど学年での順位が落ちてしまう。結局は心臓に閉鎖不全があったのだが、だれも運動しなくてよいとは言わないため、運動会や登山などつらい思いしかない。マルファンであることはわかっていたのだから、それで弁が悪いからすぐ胸がドキドキするのであって、無理に運動しなくてよいと言われたら安心できたのだろうになぁと、今は思う。

 

そしてマルファンと言われる前から目が悪かった。水晶体がきちんとした位置にないというもので、幼稚園のころから大学病院の眼科に通っていたが、特に治療はなかった。矯正のためにレンズを色々と換えてみても見え方は良くはならない。そうしている間に視力は徐々に落ち、小学4年のころから夜見えづらくなった。「夜盲」である。2年後にわかったことだが、このころ網膜剥離が進行していて、周辺がはがれ、そのために夜盲が発症していたのだった。

 

わたしが網膜剥離と診断された当時、治療法は確立しておらず、はがれた網膜をそれ以上はがれないように縫い付ける手術しかなかった。成功しても視力の回復はなく、それ以上低下しなければよいというもの。すでにわたしの左目は0.01で、文字を読むことはできず、人の顔の識別もできなかった。右目は0.1だったので、悪い左だけ手術するということになった。つまり失敗しても惜しくないから。右は失敗したら困るので手術せずに様子を見るというもの。それだけ不安な手術だったのだろうと思う。 左目の手術は成功。しかし視力の回復はもちろんない。その後右目の手術をするということはないままに視力はさらに低下し、2年後には文字の読み取りが困難となり、点字を習得。現在は左右とも完全失明で光覚もない。

 

ところが、この網膜剥離もマルファン由来であることを協会に入って後知った。厄介ごとのすべてマルファン由来のようで、これだけだと「死んだ方がまし」と見えるかもしれない。 盲学校を出て鍼灸マッサージの仕事をするようになってから定期的に心臓のエコーやCT検査を受けるようになった。ずっと何もなく、お医者も手持無沙汰。

 

が、とうとうその日が来る。30代半ばでその日が来た。心臓付近の動脈が拡張しているのだとか。が、これをお医者はわたしに告げず、母を呼び出して告げた。本人に告げないなんて、一昔前のガン告知みたいである。わたしはマルファンだと7歳で告げられているのに…。母から帰宅後に告げられて、お医者はなんて大げさかなと思う反面、とうとう来たかとも思った。 今でも動脈が50ミリに膨れないと手術に踏み切らないという病院が多い。当時のわたしの場合もそうで、まだ40ミリ台だったのですぐ手術とは考えていなかったようだ。が、時として50ミリにならない前に解離することもある。わたしもそうだった。

 

4月半ばだが、ちょっとうすら寒い日の午後、仕事場で物を取ろうとかがみこんだ。突然顎が強烈に痛み出した。1度に何本も歯痛が起きたみたいな。でも痛みは強くなるばかり。歯痛とは違う。体を起こしたらドーンという衝撃がおなかに来た。「アッ来た!」と思った。 以前から解離の瞬間どうなるのだろうと興味を持っていた。自分がその瞬間をわからないとたいへんなことになると思ったからだが、親族以外のマルファンの人に会うことすら当時は難しかった。父が手術で入院した際、同じ病気で同室の患者の親族で、やはり…と思われる人がいたのだそうだが、その後外来で顔を合わすと相手は避けたとか。だから父から血管が拡張したらどんな感じか、カテーテル検査や造影剤を入れたCTのときはどうだとか、いろいろと尋ねていた。でも父のときとは少し違ったかな。 車を呼んでもらって大学病院に行ったのだが、わずか10分余りのその時間がとても長く感じた。今にも血管が破れて大出血してしまうのではないかと不安だった。 夕方5時前ということで、まだ退勤時間直前だったので、大勢のお医者が待ち構えていた。とてもうれしそう。そうだよな、めったにないその瞬間の患者が来たのだものな。でも痛いのはつらいので、「お取込み中すみませんが、痛み止めがほしいんですが…」と恐る恐るお願いをした。そんなフィーバーだった。 すぐさま検査され、解離したことと、右頸動脈がそのために閉塞していることがわかった。なるほど顎が強烈に痛んだのはそのためかと納得した。右頸動脈と心臓付近の動脈を人工血管にし、大動脈弁を人工弁にするという手術を受け、今に至っている。

 

術後20年を経過した。 わたしの家系は同じ大学病院で手術を受けた。20年前はそうした経緯を知っている先生がいたため、円滑に推移したのだと思う。いきなり最初で、突然発症ではこうはいかない。わたし自身の検査も含め、とても良いめぐり合わせだったと思う。わかっていても突然こうしたことになるが、それでもわかっていたのとそうでないのでは大違いである。 その後、妹も同様に解離で病院に駆け込んだが、ICUはわたしとで2回目だった母は落ち着いたものだったらしく、担当看護師から「医療関係者ですか?」と言われたとか。

 

わたしはマルファンで産まれたことは厄介なことと思うのだが、遺伝性で親族に同じマルファンがいたことは幸いだったと思う。不幸にしてマルファンに産まれたとしても、対処方法は今、数多くあるので、当初はともかく、前向きに生きていけると思っている。そのためにはやはり知識、経験の蓄積が必要だなと。

sekisan_img